出版界で感じる新自由主義(2009年8月11日)


最近では、「新自由主義が馬脚を現した」「構造改革路線からの転換」などということが言われていますが、
私は新自由主義の勢いは全く衰えていないのではないかと思っています。

出版界での動きでもそれを感じます。
勝間和代氏という経済アナリスト・評論家をご存じでしょうか。
彼女はJPモルガン証券などの外資系金融・シンクタンクなどを渡り歩き、「成功」している人物ですが、
その著書はいつも爆発的に売れています。
私も読んだことがあるのですが、要は自分一人で戦略的に勉強しスキルを磨いて、リスク社会のなかで生き残らねばならない、というものです。
つまり、これからは会社も国も信用できない(年金も退職金も出ないかもしれない)社会になっていくなか、

リスクを管理するのは自分自身の努力・戦略以外にはない。だから人生そのものを戦略的に考え、仕事をし、
投資の勉強などをして、自分の資産を増やしてリスクを回避していこうという考えです。

ここには、自分の力以外は信用できないという孤高の個人主義、共同体や他者に対するニヒリズムがはっきりと見えています。
でも彼女のように「強く」なりたい、成功したいという人が一般大衆に多いから、彼女の本だけではなく、
同じような本は爆発的に売れるわけで、逆に貧乏人は敗北者=負け犬という理解が蔓延しつつある訳です。
そして、こういう本を読む人々こそが、新自由主義史観と親和的になっていると思います。
強くなりたいが、なれない自分に怒りを感じつつ(もしくは常に競争にさらされるプレッシャーに押し潰され)、
ルサンチマン意識を昂進させるなか、若者たちは、強い大人たち(特に団塊の世代あたり)の高圧的な言動によって、
大人たちがタテマエの民主主義を唱えているに過ぎないと反発を感じ、「戦後民主主義」なるものに絶望し冷笑的になって、
「結局、みんな自分の利益だけを考えて行動してるんだろう。だったら、素直に国家も国益だけを追求して何が悪いのか」という
ことで反「左」に寄っていく=それが新自由主義史観に寄ることになる、ということなのではないかと思っています。
問題は、反「左」の受け皿が新自由主義史観しかないということです。
もっとも、最近は「蟹工船」現象で共産党に人気が出てきているようですが、
現今の労働者の圧倒的多数は「正規雇用の労働者」なわけで、「蟹工船」現象を過大には評価できないと思います。
 

私は、勝間流のリスク社会の現状肯定ではなく、そもそも現今の社会を、
人々が信用し合える社会(会社・国家)に作り替えるにはどうしていったらよいかを考えるべきだと思っています。
国家など信用出来ないというのは分からないではないのですが、そうなると勝間流の超個人主義かアナーキズムに
なるしかないので(もっとも、アナーキズムは魅力ある思想なので、私も好きなのですが)、
いずれにしてもその実現はかなり難しそうです。
であれば、なんとか現状を改変して共同性を再生させる社会民主主義的な方向にもっていかないといけないのではないか
と思っています。

そのためにも、歴史を学ぶ(歴史に学ぶ)ことは大事になってくると思うのですが、
それに関し、勝間氏の発言でもうひとつ気になっているものがあります。

最近ある連載マンガの末尾に「勝間和代の『誰でも出来る日本支配計画』」という、
タイトルのコラムがあって、それをたまたま読み、そのあまりに短絡的な高度成長批判に驚きました。
そこにはこういう事が書いてあったのです。

彼女の著書で『利益の方程式』というものがあります。今までの企業は売上を伸ばすことを目標に事業を展開してきたが、
これからは利益を伸ばすことを目標にしないといけない、ついてはこういう戦略をとれば企業の利益が伸びるのだ、
という
ビジネス書です。

コラムでは、この本に関する感想を寄せた人やセミナーでの反応について、 
 本書の内容を支持した人=中小企業の経営者
 支持しなかった人、ないし反応が鈍かった人=大企業の経営者、サラリーマン
というふうに大体分かれたと言っています。 
ここまでは良いとしましょう。
しかし、これに対するコメントは以下のようなものでした。
厳しい競争にさらされてきた中小企業の経営者こそが本当の経営者と呼べる人々で素晴らしい。 
これに対して、戦後の大企業経営者は、本当の経営者とはいえず、
社内の調整・根回しに長けた人が経営者となっていただけであり、そんな経営者でも戦後日本で会社を大きくできたのは、
高度成長という市場の成長に便乗しただけ。
国に保護されて経営するというぬるま湯の環境にあった企業は、復興のおこぼれに与ったにすぎず、
誰が経営者でも成長できたのだ。
 
「おいおい」と思わず突っ込みを入れたくなりませんか。
自分の本を肯定的に読んだ人=本当の経営者
自分の本に疑問を持った人=本当の経営者とは言えない
という利己的な分類も驚くべきものですが、高度成長期の大企業は復興のおこぼれに与ったにすぎない、
自前の努力はしなくても企業が成長できたのが高度成長期なのだ、高度成長とは単に国家の保護の元で
自然に市場が成長しただけの現象だった、といってしまってよいのでしょうか。
こういう歴史理解はあまりに稚拙なのではないでしょうか。

新自由主義者は常に「戦後日本」をネガティブなものとして措定し、それを改革することを提唱します。 
勝間氏も同様であり、自分の提唱する経営戦略が、新時代のあるべき経営戦略なのだというプロモーションを行っているわけですが、
しかし、これは単なるプロモーションではないと言えます。
「高度成長」というものをネガティブなもの、否定すべき旧態依然とした体制と単純に措定して、
規制緩和と自助努力によって日本をより新自由主義の方向へ向かわせようとするもの、
それこそが新しい道なのだということを提唱しているわけです。
そして、それを支持する大衆が爆発的に多い(彼女の本は、どれも数万部という売れ行きを示しています)ということが
問題
だし、くわえて、こういう実証ヌキの高度成長批判(というより、高度成長に対する「嘲笑」「冷笑」といっていいでしょう)
が蔓延することは、
歴史というものに対する「冷笑」の蔓延につながると思います。
歴史というものが余りにも軽く扱われていると思えてなりません。

そこで、歴史家の方々にお願いがあります。
「高度成長の歴史」を、一般人に分かりやすく、きちんと提示してもらえないでしょうか。
そうしないかぎり、「高度成長」=規制でがんじがらめだった旧体制、日本にとって意味のない時代、否定すべき時代という理解が蔓延してしまうでしょう。
もちろん、高度成長には問題があったし、公害をはじめ批判すべき点も多かったと思います。
しかし、あの時代を「単なる復興過程」「何の努力もしなくてもある程度豊かになった時代」としてしまってよいのでしょうか。
あの時代に賭けた人々の努力があったのではないでしょうか。
「プロジェクトX」のようなことを言うつもりはありませんが、評価も批判も含めて、単なる経済現象としてだけではなく、
社会史的な面も含めて、きちんと高度成長期というものを歴史的に総括した方がよいと思っています。
そうしないと、思いつきのような安直な高度成長批判・戦後批判が大衆に受け入れられてしまうのではないかと危惧するのです。
そして、それこそが「革新」「改革」の名をかりたナショナリズム・弱肉強食主義の心情的基盤になる気がしてなりません。
ただ、成功神話に疲弊し、競争から降りたいと思っている人は多くなっていると思うし、
そういう人びとが「新しい共同性」への指向を探り始めているのではないかとは思ってます。
期せずして香山リカの著書で『しがみつかない生き方』というものが出ていて、
その
第10章が「“勝間和代”を目指さない」だそうなので、私も読んでみようと思ってます。
しかし、この本の版元が幻冬社(小林よしのりの本も出している)というのは、なぜ??
まあ、この版元はあまり思想的な方向性は気にしておらず、売れそうな本を出そうという方針なだけなのかもしれませんが・・・。